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2016年1月28日木曜日

蓮如上人

おはようございます!
昨日の話。。。知人の急逝の話・・・弊社社長に話した際に蓮如上人のお話をしてもらいました。
とても良い話なのでご紹介いたします。
でも浄土真宗の考えにもとずいてますので、他宗派の方のご理解もいただけますように。

白骨の御文章・・・途中より抜粋
原文★

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身をうけたりということをきかず、一生過ぎやすし。
いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや、われや先、人や先、今日とも知らず明日とも知らず、おくれさきだつ人はものとしずくすえの露よりもしげしといへり。
されば、あしたには紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて党利のよそほひを失ひぬるときは、六親眷族あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべきことならねばとて野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏申すなり。あなかしこ、あなかしこ。

現代語訳(参考;「蓮如(御文)読本」大谷暢順著)

人の世の定めなき有様をよくよく考えてみれば、本当にはかないものは、生れ、育ち、死んでゆく幻のような生涯である。まだ人が一万年の寿命を受けたということを聞かない。一生はすぐにすぎてしまう。いまでは誰も百年間体を保つことはできない。死を迎えるのは、私が先だろうか、人が先だろうか?今日かもしれぬ、明日かもしれぬ。先に死ぬ人も生き残る人も、生死の別れは絶え間がなく、草の根もとの雫と、葉の先の露のように寿命の長短があっても、人はいずれもはかなく、死んでゆく・・・・
だから私たちは朝には若々しい顔つきをしていても、夕方には白骨となってしまう身なのです。現に無常の風が吹いてきて、二つの目がたちまち閉じ、最後の一息が永久に切れてしまえば、せっかくの血色のよい顔も色を失って、桃や李の花ような美しさをなくしてしまうでしょう。その時になって親族の者が集まって嘆き悲しんだとしても、もはやなんの甲斐もないでしょう。
そのままにしておけないので野外に見送り、夜半に荼毘にふせば煙となってしまって、ただ白骨のみが残るのです。だからこそ、人の世は老少不定のはかない世界であるからこそ、いずえの人も早く後生の一大事を心にかけて深く阿弥陀仏をおたよりして念仏申すべきであります。

ながながとなりましたが、心にすとんと馴染んだので、ここに書き込みました。

後生大事に頑張ります!



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